虎尾建国眷村「眷村(けんそん)は台湾において外省人の家族が居住する地区を示す名称」は日本統治時代の虎尾飛行場から遡って、今日の虎尾建国眷村は虎尾飛行場の付属兵舎でした。1939年虎尾飛行場が航空教育基地として建設開始され、1941年真珠湾事変後、太平洋戦争の為にパイロットの増員を目指し、虎尾飛行場が訓練学員増員に応じて、1943年に大清帝国統治時代から存在していた後壁寮、竹囲子碁盤集、吳厝を3つの農村集落に移して、跡地に虎尾飛行場の兵舎が建てられました。
日本軍は移した後の3つの集落に一区と二区と三区の三つの海軍航空隊の為の兵舎を建設、かつ四区の兵舎が北渓厝から東の空地に建てられました。兵舎が完成すると虎尾飛行場は、太平洋戦争に参戦する為に、日本国籍と台湾国籍の海軍航空隊員を訓練開始、主な目的が米軍艦との戦闘目的の為でした。
1945年、第2次世界大戦終戦を迎え、日本の敗戦に伴い、中華民国が台湾を接収し、虎尾飛行場と付属兵舎が虎尾空軍基地と虎尾建国眷村となり、一~四区の兵舎が建国一~四村になり、虎尾空軍基地が前後虎尾初級飛行訓練班と虎尾空軍新兵訓練センター及び空軍防空砲兵警護司令部幹部訓練班を経て、虎尾建国眷村が虎尾空軍基地で働くパイロットの教官、通信チーム、機械兵士、地上勤務などの人たちへ住居を提供しました。
国軍は残された日本軍の兵舎を家族の為の住居として使用ました。
人口増加と住居不足に応じる為に、眷村の人たちが眷村に家屋を増築し始め、同時に、生活の品質と所得を高める為に、家屋ごとに眷村周辺の農地と眷村内の土地を活用して副業を始めました、養豚、養鶏、養アヒルなど多岐にわたり、この中でも採卵鶏の飼育が建国眷村の副業の大部分を占めました。
1980年には眷村の2世達が成長して、外へ働きに出る様になり、多くの2世達は1世である親を連れて一緒に生活しました。2世の流出や家屋の老朽化から眷村の人口が減り続け、1986年に韋恩という台風の災害で建国三村と四村(虎尾建国眷村の三村と四村)が壊滅的な状況になり、建国三村と四村の住民が1990年には既に眷村から転出が始まり。2004年虎尾空軍基地の任務終了に伴い、国防省は古い眷村の為に改築条例を公布しました。2006年には最後の住民が転出しました。虎尾の空軍史に終止符を打つような形で幕を閉じます。
退去後に、地方文化保存人の人達が建国眷村の文化的価値を呼びかけ、10年の月日を経て勝ち取り、ついに2015年雲林県庁の告示で集落の建物群になりました。
現在の建国眷村には日本軍の戦備施設と水利施設、防空施設などがそのまま残っています。同時に戦備の需要によって残っている農村景観眷村、多層的な歴史の痕跡が多元的民族と結合され、建国眷村は保存に成功すれば、徐々に復元されるものと思われます。